★科学者になるまでは・・・

マリー・キュリーは1867年にポーランドのワルシャワで生まれました。
当時ポーランドの女性たちは大学に入ることを許されていませんでした。
しかし、彼女は高校を卒業すると本を借りて、独学で化学を勉強しようと試みました。
家庭教師をやってお金をため、お姉さんをパリに留学させ、1891年には彼女自身もソルボンヌ大の物理学科を一番の成績で卒業しました。
 
翌年、今度は数学科を二番目の成績で卒業。
マリーはすぐに実験物理学者ピエール・キュリーと結婚しました。
マリー28歳、ピエール36歳のときでした。
2人は新婚旅行の途中で、2人で研究して有名になる夢を語り合ったといいます。
 
マリーは「放射線(高いエネルギーを持った電磁波や粒子線(ビーム)のこと)」の解明に研究のテーマを絞ることにしました。


★主な研究・業績

「ポロニウムの発見」
当時、ベクレルという科学者が、ウランが放射線を出すことを発見していました。 放射線を出す能力のことを「放射能(ほうしゃのう)」といいます。
夫婦は「ウラン以外にも放射線を出す物質があるはずだ」と考えました。
「そのような元素は知られていなかったから、そこには新しい未発見の元素があるに違いない」と。
夫妻は瀝青(れきせい)ウラン鉱という鉱石から、その物質を取り出す作業に熱中しました。
2人はまず、ウランを取り除きました。 当然のことながら大部分の放射能はあとに残ります。 ここからが重労働です。
まず鉱石をすりつぶし、ふるいにかけ、煮沸してとかし液体を蒸発させ、ろ過、蒸留、そこに電流を通して分解するという単純作業を続けます。
その年の7月までに彼らはとても少ない量の黒い粉末を分離(分けて取り出すこと)しました。
それはウランの400倍の放射能をもっていました。
夫妻はこの元素をマリーの故国、ポーランドにあやかって「ポロニウム」と名づけました。

「ラジウムの発見」
さらに分析は続けられました。
同じ年の12月までに彼らはポロニウムより、ずっと放射能の強いものを分離しました。この新元素は「ラジウム」と名づけられました。
夫婦は何回も瀝青ウラン鉱を分析し、8年がかりで8トンの鉱石から0.1グラムのラジウムを粘り強く取り出したのです。
マリーは放射能の研究で物理学賞、ラジウムの発見に化学賞と生涯に2度、ノーベル賞を受賞しています。



★エピソード

マリーとピエール、夫婦共通の趣味は自転車旅行でした。
結婚してからも夫婦は、度々自転車に乗ってフランス各地を周り、過酷な作業の疲れを癒したといいます。

1934年、マリーは病に倒れ、死亡しました。
死因は白血病でした。
40年に及ぶ研究生活で、彼女が生涯に浴びた放射線量は通常の生活で浴びる量の6億倍であったといわれています。
マリーの体は連続して浴び続けた強力なラジウムの放射線で完全にぼろぼろになっていたのです。
8年に及んだ実験で手や指には放射線でひどいやけどを負い、ペンさえ持てなかったといいます。

マリーの娘イレーヌも、母のあとをついで科学者になり、1935年に、ノーベル賞を受けました。