★科学者になるまでは・・・

アインシュタインは1879年、ドイツで生まれました。
彼は子供の頃、なかなか言葉を覚えず、やることなすことのろのろしていたので、両親は大変心配していました。
中学校でも優秀な生徒ではなく、問題児といってもいいほどでした。
アインシュタインはどうしてもドイツの厳しい教育になじめず、16歳で中退。結局卒業することもできませんでした。

学校になじめないでいた10〜15歳の頃、アインシュタインは、科学入門書を読みふけっていました。
また、少年期のアインシュタインに大きな影響を与えたのはお父さんとともに電気工場の経営に携わっていたヤコブおじさんでした。
ヤコブは電気技師で、アインシュタインに実際に工場を案内して最先端の発電機などを見せて回りました。

アインシュタインは17歳でチューリッヒにあるスイス連邦工科大学に入学しましたが、物理と数学以外の講義にはほとんど出席しませんでした。
物理実験室には入り浸っており、ここで彼の数学や物理学の才能が芽を出し始めたのです。
素行は極めて悪かったそうです。

1900年に大学を出たとき、彼は大学での教職につくことができませんでしたが、スイスの特許局の書記になることができ、30歳でやめるまで7年間、特許申請物の審査をしていました。
ここでの職はそれほど忙しくはなく、勉強のための時間は十分ありました。


★主な研究・業績

「特殊相対性理論(とくしゅそうたいせいりろん)」
26歳の時「特殊相対性理論」という学説を発表しました。
これは「時間や物の長さはいつも同じとは限らない。 それを測る人がどういう運動をしているかで、変わってくるのだ」という学説です。
簡単に相対性理論を説明してみましょう。
電車に乗っているときのことを考えて下さい。
あなたが、列車が進んでいる方向にボールを転がしたところ、ボールの速度は列車の床に対して秒速2メートルでした(1秒間に2メートル進む)
あなたから見たボールの速度はもちろん秒速2メートルになりますね。
そこへ友達が駅のホームからこれを見て、ボールの速度を窓越しに測りました。
ボールは列車の中を秒速2メートルで転がり、列車は秒速50メートルで通過しています。
そうなれば、あなたの友達にとって、ボールの速度は秒速52メートルということになります。
アインシュタインは、特殊相対性理論によって時間や空間が絶対的でないことを示し、物理学を根底から書き直しました。

その他、一般相対性理論、ブラウン運動理論などの研究の成果が認められ、32歳でプラハ大教授、33歳で母校スイス連邦工科大教授、35歳でドイツ最高のベルリン大教授、37歳でドイツ物理学会会長と順調に出世しました。
アインシュタインは子供の頃には落ちこぼれでしたが、得意の勉強を続け、後の物理学に大きな影響を与えたのです。



★エピソード

アインシュタインは成人してからは本をほとんど読まなかったといいます。
プリンストン大高級研究所の正研究員に就任した頃、のちにノーベル賞をもらう日本の有名な物理学者、湯川秀樹が彼をこの研究所に訪ねたことがあります。
部屋に足を踏み入れた湯川はびっくりしました。
「本がない。」
物理学本が10冊、よく整理しておいてある程度、学会論文集などを含めても100冊なかったというから驚きです。
彼は自分が論文を書く場合にも他人の論文を引用することはほとんどありませんでした。 彼の論文はいずれも簡潔で読みやすいと評判でした。

1939年に第二次世界大戦が勃発したとき、アインシュタインは、アメリカの大統領に「原子爆弾開発」をスタートさせるよう勧める手紙を書きました。 この結果、アメリカは原子爆弾を作ることに成功。
そのことで、広島と長崎に爆弾が投下され、多くの人が亡くなりました。
のちにアインシュタインは、全ての核兵器を平和のためだけに使うように呼びかける運動を行いました。